循環器内科開業医の病気、世の中、生きる悩みについての独り言です


親鸞上人についての勉強
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拝啓

 突然のお手紙にて失礼いたします。

 私は貴先生の本も数冊読ませていただいて、・・・に尊敬している者です。今回親鸞上人について、ある思いを抱きました。もとより素人ですので、全く的外れなのかもしれませんが、もしもその中に意味のあることがあれば貴先生のお教えを受けたく筆をとりました。ご多忙中勝手なお願いで誠に申し訳ありませんがご一読頂ければ幸いです。

 私は現在大阪にて内科を開業するものです。私は“かみさま”はおられるのではないかという気持ちを持っている者です。しかし私にとっての“かみさま”は、“在り難い”ことがあったときに“ありがとうございます”と感謝する対象としての“かみさま”のようです(子供の時は怖いときに“守ってください”とお願いする対象でもありました)。ですから原始的な感情ともいえ、信仰を持っているとは言いがたいレベルの者です。

 “悪”について中学生時代からそれなりの悩みを持っていた私は、当然のことながら親鸞上人の“善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや”にも興味を抱いておりましたが正直私の理解を超えておりました。5年前ある話し合いの中で“悪の相対性”ということを思いついたときに、もしかすると親鸞上人は“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”を100%のレベルで確信してはおられなかったのではないかという、浄土真宗の信者の方からすると許しがたい可能性に思い至りました。しかしそんなことを口にしても全く無益な事とこの5年間そのままにして参りました。50歳を前にして正直死にたくなるような思いをした時に、“教行信証”はじめ親鸞上人関連の本をたくさん目にしました。その中で“ある言葉”の素晴らしさを目にして、親鸞上人の想いの深さ?に思い至ったときに、私はそれらは伝えられるべきことではないかと思ったのです。それが今回筆をとった理由です。

 失礼の段は何卒お許しください。

敬具

          平成19630

 

お忙しい貴先生のことと存じますので、結語にあたる部分を最初に持ってきてプリントしており、その後に続くサポート資料(項目の番号を本文に付けております)はUSBメモリーの中に入れてあります。恥ずかしながら最後に私自身の“悪”に対しての感想なども付け加えております。その目次は下記に記載しております。プリントをもしもお読み頂けて、それが無意味でつまらないものと思われたならメモリーを破棄して頂ければと存じます。 

 また事実の可能性が高いと思うことには(○)を、まあまあ高そうと思うことには(△)を、明らかな対立意見のあるものには(?)を、私なりの判断基準として付けております。文献としては(○)にあたるものが、“教行信証”“親鸞上人の御文”“恵信尼さまのお手紙”を考えており、“歎異抄”の評価は分かれているようですので一応(△)と考えております。


目次

Ⅰ.親鸞上人 ~まとめにかえて~

Ⅱ.親鸞上人についての各論

1.法然上人の“1枚起請文”

2.親鸞上人と“教行信証”

3.親鸞上人と“歎異抄”

4.親鸞上人と賀古の教信沙弥

5.親鸞上人と“造悪無碍”ないし“本願ぼこり”

6.親鸞上人と“善鸞”

7.親鸞上人における“善鸞事件”前後の変化

8.親鸞上人と“1000部読誦”

9.親鸞上人と“聖覚上人”

Ⅲ.各論サマリー

1.私のこの仮定への反論 ~浄土和讃~

2.親鸞上人は始めから布教(人々を救う)を志しておられたのだろうか?  

3.親鸞上人は教団を作ろうとされたのか?

4.“南無阿弥陀仏”と言う言葉の絶対性について

Ⅳ.私見

  1.50歳・・・夏目漱石先生

  2.悪とその相対性

  3.生老病死

  4.親鸞上人の想いを生かす ~そして未来へ~

Ⅴ.参考文献(順不同)

 

 

Ⅰ.親鸞上人 ~まとめにかえて~

 今私は親鸞上人というお方は非常にまじめで、ただひたすらに真実を求めようとする、素直なお方なのだと思っています。

貴族の出身とされ、慈円僧正のもと僧と寄進をする貴族が救われるとした当時の貴族仏教のエリートコース?におられた可能性があります(△)が、29歳で“南無阿弥陀仏で救われる”とする浄土宗の法然上人のもとへ移られます(○)。35歳で越後へ流され、42歳で関東へ行き、そこで布教をされます(○)。52歳で主著“教行信証”の草稿を作られ(△)、63歳で何故か京都へ移り、以後関東の人々の相談にはのられますが(○)、京都では表立った布教をしておられません(△)。84歳で“造悪無碍”の対立でゆれる関東へ送った長男の善鸞を何故か義絶され、90歳で亡くなられます(○)。私には2つの何故、なぜ京都へ、なぜ義絶を、が今も残っていると思われます。

 親鸞上人には初めから衆生を救うための布教をしようという意思を持たれなかったニュアンスがあります(?Ⅲ-2)。(上人が繰り返し理想としておられた(△)と思われる“賀古の教信沙弥”は家族を持って自活し念仏三昧の生活でそこまでは同じですが、彼は布教をしない隠者様でしたⅡ-4)。

 私は以前から出来るだけその立場にたって考えようとしてきました。勿論現代人の私の感覚が当時の人と同じとは思っておりませんが・・・(ただインドを一人で旅したときに生きる事そのことが大変な世界があることを実感してはおります)。当時飢饉はひどく飢え死にする人も多かった記録があります。関東を行く、あるいは越後の親鸞上人のもとへ、生きるだけでも大変な人々が“何とかしてください”と救いを求めてきた場合、いったいその人々に何をしてあげることができたのでしょうか?“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”(念仏だけで良い)これは誰にでも出来る救いであり、僧である親鸞上人にとってはこれしかなかったとも言えます。浄土真宗の開祖とされる親鸞上人(ただし上人は教団を作ろうとされなかったよう(?Ⅲ-3)ですし、謙虚なご性格の故とは思いますが法然上人を師と呼んでおられるのに、“弟子ひとりもたずそうろう”とおっしゃっています)はこの念仏を確信しておられたというのが当然な考えだと思います。法然上人のもとにおられた上人はおそらく“南無阿弥陀仏で救われる”ことをかなりのレベルまで信じておられたとは思うのですが、“もしかして未だこのことを心から確信しておられなければ・・・?”。この可能性を5年前に不信心者である私は思ってしまったのです。分かりやすい言葉で言えば“南無佛”でなくて何故“南無阿弥陀仏”なのか?という問題なのです。(実際今回読んだ“教行信証”の中に“信和尚のいはく、・・・ひとたび南無佛と称すれば、みなすでに仏道をなる”という文がありました)私はバチアタリなのかもしれません。もしも私がその上人の状況にあって、ほかに全く救いのない最悪の状態にある場合、確信に至ってはいないのに目の前の人を救うために、他の手がなければ“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”を口にするかもしれない。医者の私が末期がんの方に“大丈夫ですよ”というのと状況は似てはいます。影響の重さを云々することは不穏当ではありますが・・・、私にははるか限りなく重いことのような気がします。でもその言葉を口にした場合どうなるのだろうか?もしも間違えていればその人の本当の往生の道を閉ざしてしまうことになりますし、なによりも目の前で“ありがたい”と喜んでいる人への裏切り行為にあたり、最大の嘘つきということになります。往生を約束するということは、間違っていれば人々の全ての罪を一身に背負う行為であり、それはまるでイエスさまとも同じ行為だし、阿弥陀様の本願そのものとも言えます。ですから“いわんや悪人をや”の悪人とは、もしかしたら最大の悪人である(上人は終始一貫ご自身を悪人とおっしゃっています(○))ご自身への思いではなかったろうかと感じました。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」とおっしゃったそうです。御自分が最大の悪人であると言っておられる気がします。誰にも伝えることなく?、このような悩ましい日々を送るとき、未熟な私は“これほど頑張っているのだから、他の人は気がつかなくてもいいが、救われてもいいのではないか?”という心をこめてポツリ“いはんや悪人をや”他人にわからぬように言葉にするかもしれません。もしも確信に至る前に“目の前の人々を救うため”に一度“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”を口にしたらどうするか?私ならばおそらくは真実を求めるために必死で確認をするための努力をしたと思います。主著“教行信証”は、その多くの部分が今までの多くの仏典からの引用なのです。何故念仏だけで良いといった後で、あれほどの大量の仏典にあたられたのでしょうか?“阿弥陀様が一切衆生を救うことを本願とされた:たとい我(法蔵菩薩)、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して、わが国(極楽浄土)に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずば、正覚を取らじ。唯、五逆と正法を誹謗せんをば除く”と“弥陀の名号を唱え歓喜して願えば往生する:あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心に回向して、彼の国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。唯、五逆と正法を誹謗せんをば除く”は仏典に確かにあります。そして衆生が全て救われるためには、称名、念仏など誰でもできる簡単な事であるはずだと言う意味でこれは理解できる事だろうと思います。上人が求められたのは、最後のほんの少しの溝を埋める“南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生する”という最後の言葉だったのではなかったかと思います。つまり“弥陀の名号を唱え歓喜して願えば”と、法然上人のおっしゃる “南無阿弥陀仏を唱えれば”がはたして同じか?という疑問だったのではないかと考えます。例えば南無妙法蓮華経や南無佛で往生するとする人々もいるのですから、おそらくその言葉自体は見つからなかったのかもしれません。手形を押したという法然上人の一枚起請文もその言葉がない証拠になるかもしれません(Ⅱ-1)。実際“教行信証”の中に“念仏”“念仏三昧”の言葉は繰り返し出てくるのですが、“南無阿弥陀仏”と言う言葉は447ページの文庫中数えてみるとたった87)回(Ⅱ-2)で、“南無阿弥陀仏”が正念であるというのはたった2回(それも問題のある箇所)でした。もしも全力を尽くしても、その確証の言葉を見つけられないと思ったとき、言いなおしようのない私なら“仕方がない。その罪を背負っていこう”とあきらめたような気がします。“南無阿弥陀仏で救われる”とした師である法然上人について、歎異抄には“たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。”という文章があります。そして一度“わが身で全ての罪を背負っていこう”と心決めてしまえば、“どうせならば全ての人々よ救われてくれ”そんな気持ちになるように思います。実際当時の仏教は女性の往生を認めていませんでしたが、親鸞上人は女性の往生も認めておられます。“いわんや悪人をや”の悪人とは、最後悪人も含めて全ての人々が救われることを祈った言葉であったのではないか、そう思いました。そしてこの確信を持っていない、あるいは確信を持っていなかった事はすでに念仏を信じた人々のためにも、絶対に以後口にすることはできない・・・。

 

 もしも確信があり、人々を救おうと初めから思っていれば、残りの人生を日蓮上人のように全てを布教にかけられたのではないかと思います。幕府の弾圧で京都へという話もありますが、表立った布教をせず京都で真実を求める作業(“教行信証”の加筆など)を続けられたと思われる上人には、より資料に接するためもあろうかと思いますが、目の前の人々の全てを背負うという心の重さも一部影響していたような気がします。未熟な私ならば耐えられません。第一の“何故”京都へ?の理由の一つになりうる気がしております。

後日関東での“造悪無碍”などの対立を解決するために長男の善鸞を送られます。ですから長男を信頼しておられたのだと思います(Ⅱ-6)。善鸞は“造悪無碍”を否定(“教行信証”のアジャセの話などからすると親鸞上人も善鸞に賛成のはずですⅡ-5)し、ある意味教団としてのまとまりを作ろうとしたようです(?)し、“造悪無碍”のものを幕府に訴えたり、逆に年来の有力な信者たちと摩擦をおこします。“人々の同じ心ならずさうらうらんも、力及ばすさうらう。人々の同じ心ならずさうらへば、とかく申すに及ばず、今は人の上も申すべきにあらずさうらう”と、とにかく喧嘩はやめてくれと義絶前に上人は善鸞へ手紙を書き送られます。“全ての人々が救われれば”と思っておられた上人には真実をいえない(?)がための“力及ばす”はつらかったでしょうし、息子に真意を伝えられなかったもどかしさがあったかもしれません。

しかしここにもう一つの妄想があります。義絶状に“また慈信房(善鸞)の法文のやう、名目をだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、夜親鸞がをしへたるなりと、人に慈信房申されて侯ふとて、これにも常陸・下野の人々は、みな親鸞がそらごとを申したるよしを申しあはれて候へば、いまは父子の義はあるべからず侯ふ。”つまり“俺だけが父から夜に聞いている話がある”と言っていたとあります。信頼して関東へ送った長男にもしも“実は念仏往生の確信がない”ことを告げておられたとしたら・・・。内容は“ 第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに誇法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり。”とあります。念仏の根本を“そらごと”と外へ出してしまったようです。でもそれをしては、今までの全ての人々の救済が消えてしまう。カリスマの父を持ち、関東へ行ってもうまく事が運ばない息子が“実は・・・”と一部口にしてしまうことはあるかもしれない。それを敵対関係のものが利用してうまく告げ口をしたらどうなるだろうか。他人に見られては困る内容の行き違いを、果たしてうまく遠距離の手紙で修正することができるのだろうか?

最後84歳の親鸞上人は“造悪無碍”と逆の立場の長男の善鸞を義絶されます。他にもいろいろと理由があっただろうとは思いますが、家族思いに見える親鸞上人にとってはよくよくの事であったろうと思われます。私が罪を背負うから、とにかくとにかく仲良くして欲しいと思っているのに、それが最後かなわぬと思ったとき、あるいは自身を苦界に落としての救済が消えるかもしれないと思ったときに、どちらを捨てるのであろうか・・・?それでも難しい問題かもしれません。そこには一部、教団として残したくなかった気持ちがあったのかもしれません。でもやはりこの件はわかりません。私には家庭人にうつる上人が長男を義絶するということ自体とにかくおつらかったろうと思ってしまいますし、もしも万一善鸞に伝えておられたにせよ、伝えておられなかったにせよ、自分の誰にも言えない秘密がその義絶の原因であるとしたら耐え難いことではなかったかと思います。これは医者としての印象ですが、高齢になると人は頑なになる傾向があり、特に強烈な精神的なショックがあった時には、いろいろな変容があると思っております。私にとって御高齢の親鸞上人はまるでスーパーマンのようにご立派ではありますが、義絶以後の上人には精力的に著述をするようになったことや考え方含め、少し変化の印象を持っております(Ⅱ-7)。とすると親鸞上人を考える際には84歳の前後で同じ考えと決めておくのはある意味間違いを生む可能性があるのかもしれません。


さて惠信尼夫人の手紙の中に関東で42歳と59歳(4月)の2回上人がお経を1000部読誦する行(これは念仏のみで往生するという考えにとっては違反行為にあたります)をされ、45日目に“これはいかん”と止められたという記載がありました(Ⅲ-4)。

上人が9歳のときの飢饉では京都市内だけで2ヶ月で42300人の餓死、病死があったそうです。58歳の6月に雪が降るなどの非常な天候異変が続きそこからの上人のおられた関東地方での飢饉は9歳のときよりとてもひどかった記載があります。59歳の4月と言うと凶作のあとの冬を越えたころで大変な時期であることが予想されます。“念仏で救われる”としながら、その信者がバタバタと餓死していく。それを目にした時に、“本当に念仏だけで大丈夫なのか?”私なら自分に問い直すと思います。しかし上人の家族には餓死者はいない(夫人の実家が荘園を持っていたとされるようです(?))。何もしてあげることのできない身としては罪の意識にまでとらわれてしまいそうです。“何でもいい。人々を救ってくれ!”おのれの宗旨を捨てても(確信がなければありうることと思います)読誦してしまう・・・。でも自分がそれをしたとき、今まで念仏を信じて救われていた人たちはどうなるのか?それを思い直したら、例え自分の中に疑問を持っていても絶対に出す事ができないことの重要性に再度考えは帰着するように思います。63歳で上人は家族をつれて京都へ向かわれます。全てをご自身の中に引き受けると言う心の辛さがそこに影響していた可能性はなかったのでしょうか。42歳は越後を離れて関東へ入った年で、人々の現実を目のあたりにされた年といえるのかもしれません。やはり上人は惑われていたという気がします。

今回読んだケネス・タナカさんは親鸞上人を4つのHで表現しておられました。Honesty(正直)、Householder(家庭人)、Humility(謙虚さ)、Here-and-now(今ここ)。全く私の感じたイメージと同じです。やはり上人は目の前にいる人々を何とか救いたいとご自身の全力を尽くされたように思えます。

そして夫人から上人の最後を看取った本願寺3世の母親となる娘へのこの手紙は上人の死後のものです。この上人の念仏者としての裏切りとも言える行為を何故にその死後に夫人は伝えられたのであろうか?単なる思い出話なのだろうか?私は上人の惑いを夫人は本当に理解しておられた(そしてそれをご自身も抑えておられた)・・・、そんな気がしてしまいます。親鸞上人にとって“ありがたい”というか、羨ましいことだと思います。


 

歎異抄は弟子の唯円が親鸞上人を回顧して書いたものとされていますが、その最後に有名な“煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもて、そらごと(うそ)、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします”という文章があり、通常念仏のみ真実とされますが、これは明らかに論理的におかしいと思われます。“全てがうそ”なのですから“念仏以外はみなうそ”にはなるはずがありません。前半が親鸞上人のお言葉で“この世の中の事はウソばかり・・・(自分がしてきたことへの述懐?)”で、それを理解できるはずのない唯円が“ただ念仏のみぞまことにておはします”を付け加えたのではないかという気がします。とにかく歎異抄の中には、“南無阿弥陀仏で救われる”を否定するような言葉が散見されます。唯円というフィルターに問題があるのか、逆に唯円の前でついつい本音をおっしゃる上人がいたのか、私にはわかりません(Ⅱ-3)。

 

 親鸞上人は教行信証で何を伝えようとされたのか?を知るために、初めてこの本を手にしたのは恥ずかしながら昨年末のことです。前述しましたように“南無阿弥陀仏”の言葉はただの78)回で、決して“南無阿弥陀仏で救われる”ことを宣伝するための本には思えませんでした。そして最後のページに私にとって感動の言葉がありました。

“もしこの書を見聞せんものは、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力にあらはし、妙果を安養にあらはさん。安楽集にいはく、真言をとりあつめて往益を助修せん。いかんとなれば、さきに生ぜんものは、のちをみちびき、のちに生ぜんものは、さきをとぶらひ、連続無窮にして、ねがはくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海をつくさんがためのゆえなり。”

間違い訳かもしれませんが、“この書を見た人は、信じるところは信じ、疑うところは疑って、妙果を得てください”。お釈迦様は弟子に“私の言葉をそのままに信じるな。自分で考えなさい”とおっしゃったそうです。この書き方からは上人は私の言っていることはまだ確定ではないのだよとおっしゃっているように思われます。“真実の言葉を集めて来るべき幸せの助けをしよう”上人はこの教行信証で“南無阿弥陀仏で救われる”が事実であることへの自分の肉薄の軌跡を次の世代の為に残そうとされたのではないでしょうか。私は学問には新しいものを見つける人と、例えば“群書類従”なども同じ意味があると思いますが、次の世代の人が同じことで時間をつぶさなくてすむように、今までの学問を真剣に客観的にまとめる人が必要だと思っています。後者をするのは抜けがあってはダメなので、本当に信頼できる人物でなければダメだと思っています。“なぜなら先に生れたものは後のものを導き、後に生れたものは先に生れたものに尋ねつつ、連続して休むことなく、妙果をえるようにしてほしい。”私には海には命の母というイメージがありますので、“生きている甲斐を理解して、生きることを味わうためである”とでもしておきます。私は臨床経験からも、真実を見出すためには時間の視座が必須であると思っております。間違いなくこの上人のお言葉には時間の視座があります。同じ時代の人だけでなく、次の時代の人含めて全ての時代の人類全体として一歩ずつ幸せを求めて行って欲しい。私は礎になるから・・。そうおっしゃっているように感じます。我々は親鸞上人から大切なことを託されたのではないか、それが伝わっていないのではないか、この文章を読んで私はそう思いました。

以前医者になってすぐの頃ですが、学会に参加したときに同じシンポジウムを繰り返すばかりで、一つずつ問題を解決していこうとする姿勢のないことを“医者のマスターベーション”と感じて、正直幻滅を感じておりました。“真実をえることは人類の宝”という視点に立てば上人のおっしゃるようでなければいけないのだと思えます。実は私が外へ出すことなく夢想してきたのは、“真実を求める事”“真実を蓄えていく事(創造、検証、評価、そして再評価:歴史の研究とこれからの歴史の客観化)”のシステム化とでも表現したらよいのか、人類がゆっくりとでも幸せに向かえるための方法論(実はきわめて稚拙なものですが)であった気がします。

この最後の文章からは“誠実に真実を求めていこう”とするお姿と、“時代を超えて人類全体の幸せが増していくことを祈っている”お姿を800年前の上人に認めます。これに気づいてすぐは、偏狭な私は“上人は本当の科学者”と思いました。でもそれは違うと思うようになりました。 “人類が全体として幸せになっていくこと”を基本において、“皆でいっしょに少しずつ考えていきましょう”というメッセージと解すれば、科学でも、宗教でも、教育でも、何でもかんでも、とにかく当てはまる普遍的なことだと思われます。

 

 初めに気づいた可能性は決して建設的なことではありませんでした。でも人々を救うために自分を最大の悪人かもしれない苦悩の世界に置き、そしてもしかしたらそのために家族を失ったかもしれない上人を想うと、確信に満ちた上人様よりもはるかに“ありがたい”ことと思われるのです。上人のおかげで同じ時代の人だけでなく、その後のどれほど多くの人々が救われたことか。でもだからこそ、我々は“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”に安住することなく、一歩ずつでも問題を解決していく努力をしていくべきなのだと思います。


 話は少し変わりますが、親鸞上人は教行信証に“かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、・・・真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし”と書いておられます。師匠の法然上人は独身ですが、“観音様が代わりに女犯を受け入れる”という夢のお告げを言い訳?に当時の高僧としては珍しく妻帯しておられます。性を別の問題として隠しおいた空海さん(日本最大の思索者と思いますが)と違って、おそらくは性という問題(煩悩として?)を素直に正直に受け入れられたのだと思います。あの大変な時代に家族をつれて飢饉のひどい関東へ行ったのも、“たとえ途中で死んだとしても、その短いかもしれない時間を共に過ごしたい”という感じで私には共感させられます。京都へ帰った時に妻の恵信尼は越後へいきますが、最後まで京都で上人の世話をする娘に“上人の絵を送って”とか“上人様は極楽往生間違いなし”と手紙に書き送っておられます。愛情は変わらなかったということだと思いますし、夫人のお手紙によりますとお互いを観音様と思っていたようで、もしかしたら夫人は上人の本心?をご存知だったのかもしれないとも思います。(もしも長男に言うとしたら夫人には言っておられる気がします)。私はあれだけの苦悩を抱えられたかもしれない上人は、夫人がおられたから耐えられたのではないかという気持ちも持っております。羨ましいと思います。

 親鸞上人は繰り返し聖覚上人の書である「唯信鈔をよくよく御覧さふらふべし」とおっしゃったり、書写されたり、さらには解説書である唯信鈔文意を書いておられます(○)。聖覚上人は法然上人が「聖覚、我がこころを知れり」と答えられたと伝えるほどの人物ですが、親鸞上人とは妻帯、信不退などで共通点が多くみられます。この事実は親鸞上人が教団の開祖を目指しておられたのではなく、本当に“同行、同朋”として、時代の1バトンランナーとして唯ひたすらに実践をされたことを物語っていると思います。だからこそ今にそれが受け継がれたのだと思っております。御自身の教行信証の最後の一文を実践されたわけで、それこそが素晴らしいことだったのだと考えております。


 親鸞上人は女性を愛することに見られるように、自分の気持ちに素直な人だったと思います。三段論法も完全ではないかもしれませんが、教行信証を見ていると、できるだけ論理的であるようにされた人だと思います。文献を調べまわられたことにみられるように、何より“真実”を馬鹿なほど誠実に求めた方に思われます。“真実”を本当に大切にするならば、“ウソ”を残すわけにはいかない。もしかして教団を作ろうとしなかった?“弟子ひとりもたずそうろう”とおっしゃたのは、それかもしれない。それが目の前にいる苦しむ人を救うために、自らが地獄の思いをするしかなくなってしまった。もしかしてそのために家族まで失ってしまった。でも未来を見ておられた。自分の思いをいつか誰かがついで“真実”を明らかにすることを信じておられた。そのための礎になることを受け止められた。そして思わず知らず目の前の人々だけでなく、後世の多くの人々を救われた。そんな方であった気がします。私はそのような親鸞様を思い浮かべるとき、私のかみさまに対すると同様“ありがとうございました”と手を合わせたい気持ちにさせられます。

 

 もし、もしだらけの全く自分勝手な解釈のようにも思われます。“バカげている”気もしております。私は親鸞研究家などではありませんので、一言の元、私の抱いた可能性がないことを示す事実があるのかもしれません。でも教行信証の最後のページにあったあの文章の素晴らしさが伝わっていない、それを伝えるだけでも意味があるような気がしております。

        ありがとうございました。

 


Ⅱ.親鸞上人についての各論


1.法然上人の 1枚起請文”(入滅2日前)

 もろこし我が朝に、
 もろもろの智者達のさたし申さるる、
 観念の念ニモ非ズ。
 又学文をして念の心を悟リテ申(もうす)念仏ニモ非ズ。

 ただ往生極楽のためニハ、
 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と申て、
 疑なく往生スルゾト思とりテ、
 申外ニハ別ノ子さい候ハず。

 最も簡潔に法然上人の考え方のエッセンスを述べていると思われますが、その最後に“証のために、両手の印をもってす”の言葉があります。当時の単なる習慣かもしれませんが、私には宗祖としての強い自覚、“南無阿弥陀仏”を見つけ広めたのは私だと言う気概を感じ取らされます。であれば、“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”は過去の経典にはないのかもしれません。


2.親鸞上人と“教行信証”

 親鸞上人の主著とされますが、“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”を確認するための、上人ご自身の研究の軌跡(ついに結論に至らなかった)ではないかと考えます。

①過去の経典からの引用が主体である。

②“南無阿弥陀仏”を宣伝するためとすると、この“南無阿弥陀仏”の言葉自体が後述の如く文庫本で447ページ中、わずか7+(1)と極めて少なく、“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”にあたる文章は1.24の2つの文章だけ(それも五逆を除く、一念などの問題の箇所)であるし、全体あるいは各巻の結論としての位置にはおかれていない。

1.2.行巻(岩波文庫P44) 悲華経の大施本の二巻に

“五逆と、聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとをばのぞかん”に続けて、

 しかればみなを称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願をみてたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり。しるべし。

3.行巻(岩波文庫P95) 源空の集(法然上人のお言葉)として

 選本願念仏集にいはく南無阿弥陀仏

4.行巻(岩波文庫P98) 光明寺の和尚(善導大師)の下至一念、一声一念の項で

“さだめて往生をうと信知して、一念にいたるにおよふまで疑心あることなし”に続けて

 いま弥勒付属の一念は、すなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。

 (最後の一節のみ“念仏すなはちこれ”という言葉を略している)

5.真佛土巻(岩波文庫P308) 鸞和尚の造として

  讃阿弥陀仏偈にいはく、南無阿弥陀仏。

6.7.化身土巻(岩波文庫P445) 法然上人との以前の出来事して

おなじきとし、初夏中旬第四日、選本願念仏集の内題の字、ならびに南無阿弥陀仏、往生之業念仏為本と、釈の空の字と、空の真筆をもてこれをかかしめたまひき。おなじき日、空の真影まうしあづかりて、図画したてまつる。おなじき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は真筆をもて、南無阿弥陀仏と、若我成仏十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取不覚、彼佛今現在成仏、當知本誓重願不虚、衆生称念必得往生、の真文をかかしめたまひき。

(8).行巻(岩波文庫P78)善導大師のお言葉として

またいはく、南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもてのゆへに、かならず往生をう。

  (近いているがまだ南無阿弥陀仏とは言っていない)

参考1.行巻(岩波文庫P70)善導大師のお言葉として

またいはく問ていはく、阿弥陀仏を称念し禮観して、現世にいかなる功徳利益かあるや。こたえていはく、もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなはちよく八十億劫の生死の重罪を除滅す。(南無阿弥陀仏とは言っていない)

参考2.行巻(岩波文庫P97

 大本にのたまはく、佛、弥勒にかたりたまはく、それかの佛の名号をきくことをえて、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさにしるべし、このひとは大利をうとす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり

③教行信証のエッセンスとされる正信念仏偈の中にも南無阿弥陀仏は一言もない。

参考3.行巻(岩波文庫P114

 しかれば大聖の真言に帰し、大祖の解釈を閲して、佛恩の深遠なるをしりて正信念仏偈をつくりていはく、 ・・・に続く正信念仏偈の中にも南無阿弥陀仏の言葉はない

④逆に“南無佛”という言葉でよいという文章まである。

参考4.行巻(岩波文庫P93

この六種の功徳によりて、信和尚のいはく、一には念ずべし、ひとたび南無佛と称すれば、みなすでに仏道をなる。かるがゆへにわれ無上功徳田を帰命し禮したてまつる。

⑤念仏ないし念仏三昧という言葉はとてもたくさんある。

参考5.行巻(岩波文庫P77

念仏三昧はこれ真宗なり

⑥“もしこの書を見聞せんものは”に始まる、筆者にとっては感動的な次の一文が教行信証の真実の目的、さらには親鸞上人の人生をあらわしているのではないか。

参考6.化身土巻(岩波文庫P447

“もしこの書を見聞せんものは、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力にあらはし、妙果を安養にあらはさん。安楽集にいはく、真言をとりあつめて往益を助修せん。いかんとなれば、さきに生ぜんものは、のちをみちびき、のちに生ぜんものは、さきをとぶらひ、連続無窮にして、ねがはくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海をつくさんがためのゆえなり。”

⑦教行信証への着手は布教開始以後であり、“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”を確信した後にしては完成に時間がかかりすぎている。確信の最終的な根拠が法然上人がおっしゃったからであったとしたら、時間がかかることはありうるし、一枚起請文のことからすると答えは見つからないのかもしれない。


3.親鸞上人と“歎異抄”

 歎異抄の中には確信した親鸞上人と全く対極にある親鸞上人が潜んでいる気がします。そして私にはそれは真実であったのではないかという気持ちがしております。

    歎異抄の中には、“南無阿弥陀仏で救われる”を否定するような言葉が散見される。

作者の何らかの意図があるのか?あるいは本音をもらす上人がそこにおられるのか?

1)詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面面の御はからひなりと云云。(歎異抄二)

2)念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。(歎異抄九)

3)煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします(歎異抄後序)

②“法然上人にたとえだまされたとしても”は印象的だが、何をだまされてというのか?

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(源空)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし(歎異抄二)

③同様の文章は29歳当時の話として惠信尼からの手紙にもあり、本当ではないかと思う。

弘長3年(入滅翌年)210日惠信尼から覚信尼への手紙

「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世世生生にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。

④“弟子一人ももたず候ふ”の真意は?法然上人を師と呼ぶことと矛盾しないか?

専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。(歎異抄六)

⑤悪の認識:そくばくの業とは何を意味するのだろうか?

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを(歎異抄後序)


4.親鸞上人と賀古の教信沙弥

 親鸞上人の本当の希望は真実を求めながら念仏三昧を家族と共にする生活で、布教を初めから目指しておられたのではないのかもしれません。

①“親鸞上人はあの賀古の教信沙弥を心の規範にしている”と言い続けておられたらしい(△)。(改邪鈔)

    賀古の教信沙弥と親鸞上人には共通点がある。

1)大きな寺(興福寺)を出て田舎に草庵を作って住んだ。上人は関東へ??

2)妻帯し子供をもうけている

3)昼夜に念仏三昧の非僧非俗の生活であった。上人は越後配流後、“愚禿”と名乗る

4)死後自分の遺体を鳥獣に食わせた。上人は鴨川で魚の餌にと言っておられた。

 大きな違いは布教をしたか否か。親鸞上人は賀古の教信沙弥の何を羨ましく思われたのだろうか?単に念仏三昧だけであろうか?


5.親鸞上人と“造悪無碍”ないし“本願ぼこり”

 “弥陀の本願は全ての人を救うこと”さらに“悪人をこそ救うこと”とした場合、“造悪無碍”ないし“本願ぼこり”の発生する事は極めて自然であったと思われます。

    親鸞上人は表立っては“造悪無碍”を否定されなかったのではないだろうかと思います。

1)だからこそ“造悪無碍”の徒による問題が実際に発生したのではないか。

2)次のように“本願ぼこり”も救われるとも言っておられます。

本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころをさなきことか。(歎異抄十三)

    親鸞上人は本心では“造悪無碍”を否定していたと思います。

1)“教行信証”で父殺しのアジャセが救われるには“懺悔”と“善知識につく”ことが必要という条件をつけている。

2)下記の手紙の中で“造悪無碍”の徒を“獅子身中の虫”とまで言っている。

83歳の92日差出人不詳のお手紙(○)に

“かかるわるき身なれば、ひがことをことさらに好みて、念仏のひとびとのさはりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまふべしと申すことは、ゆめゆめなきことなり。・・・ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。よくよく御はからひども候ふべし。”と“造悪無碍”ないし“本願ぼこり”を明らかに否定しておられます。

また同日の善鸞へあてたお手紙(○)には

“信願坊が申すやう、かへすがへす不便のことなり。わるき身なればとて、ことさらにひがことを好みて、師のため善知識のためにあしきことを沙汰し、念仏のひとびとのためにとがとなるべきことをしらずは、仏恩をしらず、よくよくはからひたまふべし。・・・仏法をばやぶるひとなし。仏法者のやぶるにたとへたるには、「獅子の身中の虫の獅子をくらふがごとし」(梵網経・意)と候へば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ候ふなり。よくよくこころえたまふべし。なほなほ御文には申しつくすべくも候はず。”と

  人はきれいごとよりもむしろ口汚く言う言葉の中にこそ本心がある気がします。

    では“造悪無碍”の否定と、“善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや”は一見明らかに矛盾する。だから本心では“造悪無碍”を否定しながら、表立っては言えなかったのではないか。・・・でははじめの矛盾は何故起こったのか?

1)“悪人”の意味するものが実は異なっていたが、それを言えなかったとしたら?

・・・本論で


6.親鸞上人と“善鸞”

①親鸞上人は息子“善鸞”を心から信じて、愛しておられたと思います。

1)難しい問題の発生している関東へ名代として(?)送った

2)“造悪無碍”の徒に対して獅子の身中の虫という表現で本心を出している。(前出)

3)当初年来の関東の有力な僧よりも“善鸞”を信用している

8392日の慈信房へのお手紙

 “入信坊・真浄坊・法信坊にもこの文を読みきかせたまふべし。かへすがへす不便のことに候ふ。性信坊には春のぼりて候ひしに、よくよく申して候ふ。”

4)疑念を抱きつつもなお信じようとしている

83119日の慈信房へのお手紙

“また親鸞も偏頗あるものときき候へば、ちからを尽して『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこころども、二河の譬喩なんど書きて、かたがたへ、ひとびとにくだして候ふも、みなそらごとになりて候ふときこえ候ふは、いかやうにすすめられたるやらん。不可思議のことときき候ふこそ、不便に候へ。よくよくきかせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。・・・略・・・真仏坊・性信坊・入信坊、このひとびとのこと、うけたまはり候ふ。かへすがへす、なげきおぼえ候へども、ちからおよばず候ふ。また余のひとびとのおなじこころならず候ふらんも、ちからおよばず候ふ。ひとびとのおなじこころならず候へば、とかく申すにおよばず。いまはひとのうへも申すべきにあらず候ふ。よくよくこころえたまふべし。”

②しかしついには義絶の道を選ばれます。

 もしもこの文中の親鸞上人が慈信一人に教えた内容が、“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなしに100%の確信を持っていない”ということであったならば、そのことに上人ご自身がもしも気がついていなければ、つじつまが合うのかもしれない・・・というのが第2の疑惑です。

84529日の慈信房への義絶のお手紙

 また慈信房の法文のやう、名目をだにもきかず、しらぬことを、慈信一人に、夜親鸞がをしへたるなりと、人に慈信房申されて候ふとて、これにも常陸・下野の人人は、みな親鸞がそらごとを申したるよしを申しあはれて候へば、いまは父子の義はあるべからず候ふ。

 第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり。


7.親鸞上人における“善鸞義絶事件”(845月)前後における変化

    83歳以後の著作数は明らかに急増しています。                      

83歳時点ではお手紙も多く、混乱を解決するための著作活動でありえますが・・。

    三帖和讃においても76歳の浄土和讃高僧和讃には教えようとするイメージが強いが、

85歳で作られた正像末和讃には懺悔のイメージが反映されています。

③例えば信者への弾圧をする側への対応において次の大きな変化が認められます。

83歳の92日の手紙(○)では

“この世のならひにて念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそ候はめ、とかく申すべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは申され候ひしか。”

と権力とは無縁で、念仏は個人の問題と言うイメージであり、弾圧者に対しても優しい気持ちで対応しておられたが、

85歳の19日には手紙(○)では

“念仏をさへらるなんど申さんことに、ともかくもなげきおぼしめすべからず候ふ。念仏とどめんひとこそ、いかにもなり候はめ、申したまふひとは、なにかくるしく候ふべき。余のひとびとを縁として、念仏をひろめんと、はからひあはせたまふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。そのところに念仏のひろまり候はんことも、仏天の御はからひにて候ふべし。”

とやはり念仏は個人の問題としているが、権力とは袂を分かったような対応となり、“なにかくるしく”と冷たく言っておられる。

さらには85歳7月9日のお手紙(○)では

“御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。”

と自分の信心が出来上がっている人は国のために念仏を捧げることを言っておられます。これは念仏が個人のレベルを離れる事を意味しており、もしかすると出来上がったもの(考え方、あるいは教団?)を守ろうとする気持ちが見える気がいたします。


8.親鸞上人と“1000部読誦”

  親鸞上人が専修念仏を唱えられた後で、1000部読誦”をするといういわゆる裏切り行為をしたことについて、上人は誠実に困っている人々を前にすると何とかしようと努力する方であり、未だ“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”を確信できていなかった可能性を示しています。

  59歳が大飢饉による苦悩であったとしたら、42歳の苦悩の原因は何であったのだろう?関東へ入った年に当たるが、越後では布教活動をしておられたのだろうか?

弘長3年(入滅翌年)210日惠信尼から覚信尼への手紙

 善信の御房(親鸞)、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、かざ心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して大事におはしますに、腰・膝をも打たせず、てんせい看病人をもよせず、ただ音もせずして臥しておはしませば、御身をさぐればあたたかなること火のごとし。頭のうたせたまふこともなのめならず。
 さて、臥して四日と申すあか月、くるしきに、「まはさてあらん」と仰せらるれば、「なにごとぞ、たはごととかや申すことか」と申せば、「たはごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』をよむことひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字の一字も残らず、きららかにつぶさにみゆるなり。さて、これこそこころえぬことなれ。念仏の信心よりほかにはなにごとか心にかかるべきと思ひて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく三部経を千部よみて、すざう利益のためにとてよみはじめてありしを、これはなにごとぞ、〈自信教人信難中転更難〉(礼讃)とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへしてよまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや。人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経読むことはとどまりぬ。さて、臥して四日と申すあか月、〈まはさてあらん〉とはまうすなり」と仰せられて、やがて汗垂りてよくならせたまひて候ひしなり。
 三部経、げにげにしく千部よまんと候ひしことは、信蓮房の四つの歳、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにてよみはじめて四五日ばかりありて、思ひかへしてよませたまはで、常陸へはおはしまして候ひしなり。


9.親鸞上人と“聖覚上人”

 親鸞上人は兄弟弟子(?)として聖覚上人を深く尊敬しておられたようだし、その考え方の多くを引き継いでおられるのではないか。唯信鈔の名前を繰り返しそのままに出していることで教団の開祖としての意識を感じないし、“流れの中にある者”を実践しているという意識を感じます。

①聖覚上人と法然上人:弟子の一人が、師亡き後は誰に疑問を解いて貰えばよいのかと問

うたとき、「聖覚、我がこころを知れり」と答えられたと伝えるほどの人物。
②聖覚上人と親鸞上人には共通点が多い

1)ともに妻帯者であった。

2)信心こそ往生の決定要因である(信不退)との明確な意思をもっていた(○)。

3)専修念仏の弾圧に対し昂然反論した。  など

③唯信鈔(聖覚上人著)と親鸞上人:

1)親鸞上人は繰り返し唯信鈔を書写しておられる(○)。

2)唯信鈔を分かりやすくするために、唯信鈔文意を書いておられる(○)。

3)お手紙の中に「詮ずるところ、唯信鈔・後世物語・自力他力、の御文どもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし」、また「唯信鈔をよくよく御覧さふらふべし」とある(○)。

④唯信鈔の構成:基本的かつ重要な問題が解説されている。
  1)仏道(生死出離の道)における聖道門(釈尊をまねる道、末世に合わず)
                 と浄土門(末法の世の衆生にも可能)

  2)諸行往生(聖道門の行で往生を願う)と念仏往生 (弥陀の本願の称名念仏)

3)雑修(念仏以外の行を捨てられず)と専修(本願を信じ、念仏一行)

:仏意にかなう道・・唯、信心を要とすることを明かす

4)臨終念仏と尋常念仏
  5)弥陀の願力と先世の罪業、五逆の罪と宿善
  6)一念と多念


Ⅲ.各論サマリー


1.私のこの仮定への反論 ~浄土和讃~

76歳で作られた浄土和讃の中の現世利益和讃の15首は、“南無阿弥陀仏をとなふれば”ではじまり種々の現世利益を保証、断言していると言う点で、今回私が仮定した親鸞上人への100%の反論となります。年齢も84歳の事件よりもかなり前のものということになりますので事件による変容の影響を理由にはできません。
 76歳で作られた浄土和讃、高僧和讃は内容からは、教行信証の教巻、行巻を一般の人にわかりやすく説こうとした印象があります。そして浄土和讃の構成は吉本隆明先生がおっしゃるように浄土三部教と菩薩様たちへの賛歌と思われるのですが、その中に挿入されたこの現世利益和讃15首には恣意的かもしれませんが異質な印象がいたします。教行信証同様、85歳で作られた正像末和讃(これには義絶事件翌年のためかもしれませんが、上人の懺悔の匂いを感じてしまいます)も書き直しをされていますが、この現世利益和讃が後日の挿入か、あるいは他者の挿入かそこまで考えてしまいます。私には

98
一切の功徳にすぐれたる
 南無阿弥陀仏をとなふれば
 三世の重障みなながら
 かならず転じて軽微なり
99
南無阿弥陀仏をとなふれば
 この世の利益きはもなし
 流転輪廻のつみきえて
 定業中夭のぞこりぬ
念仏を唱えながらも飢えて亡くなられた人々にあれほど悩まれたと思われる上人が、極楽往生を担保することさえ大変であるのに、軽々にこの言葉をはかれるとは信じられないのです。むしろ正像末和讃の中の

54
弥陀大悲の誓願を
 ふかく信ぜんひとはみな
 ねてもさめてもへだてなく
 南無阿弥陀仏をとなふべし

の御歌のほうが、“思い切られたのだな”という気持ちにさせられました。しかし事実は私にはわかりません。


2.親鸞上人は始めから布教(人々を救う)を志しておられたのだろうか?

 29歳で比叡山を降りて法然上人の元へ向かわれたということは、名利や安定を求める方ではなかったことを意味していると考えます。では真理を求めておられたのか?人々への布教を求めておられたのか?それ以外なのか?

①現時点では親鸞上人は始めから布教を志しておられたのではないだろうと考えています。

1)賀古の教信沙弥を心の規範にしておられた

  2)越後での生活が不分明だが、越後の上人関係者は覚善一人と少なく、後日京都と関東の間でみられた結びつきが認められない。

     ただし法然上人が非難した善心が誰かは疑問として残る。

  3)42歳で1000部読誦”をするほどの信仰上の悩みを持たれた。

  4)京都へ帰ってから明らかな布教をしていない。

②真理を求めようとする真摯さは“教行信証”という書物自体に明らかである。

 だから本当に真面目に悩む方だったのではないでしょうか。そういう人は確信を持てないうちは自分を出そうとしないものだと感じております。


3.親鸞上人は教団を作ろうとされたのか?

①少なくとも84歳以前の親鸞上人には教団を作ろうとする意思を感じない。

  1)他人の書の「唯信鈔をよくよく御覧さふらふべし」という言い方をしておられる。

  2)京都へ帰ってからの関東への対応も受動的である。

  3)“弟子一人ももたず候ふ”と言っておられる。

専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。(歎異抄六)

  4)真実を重んじるならば、もしも“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”に確信がなければ、この考えを確定したものとして残さない努力を影でするだろうと思います。


4.“南無阿弥陀仏”と言う言葉の絶対性について

“南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生間違いなし”を確信しておられたのだろうか?

①本論に述べたとおり完全には確信しておられなかった可能性を考えています。

1)教行信証という書物の存在

2)悩んだときに“1000部読誦”をされたこと。

3)京都へ帰ってから布教活動をあまりしておられないこと。

4)歎異抄の中の否定的な発言をされる親鸞上人

5)教行信証の最後のページの言葉

②“南無阿弥陀仏”と言う言葉でなければいけないのか?

1)教行信証における“南無佛で・・仏道をなる”という文章

2)手紙の中で無碍光仏と言ってもよいとある。

83歳の1010日の手紙(○)で

“南無阿弥陀仏をとなへてのうへに無碍光仏と申さんはあしきことなりと候ふなるこそ、きはまれる御ひがことときこえ候へ。帰命は南無なり、無碍光仏は光明なり、智慧なり、この智慧はすなはち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏の御かたちをしらせたまはねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまゐらせんとて、世親菩薩(天親)御ちからを尽してあらはしたまへるなり。”

3)正信念仏偈の始めは、“帰命無量寿如来(阿弥陀如来)”と全く同じものである。

ここは“南無阿弥陀仏”で始めても良いところなのに、言いかえをしているのは意図的??

③言葉(念仏)がなければ(たとえば聾唖者)往生できないのか?

1)法然上人の前で“行不退:本願を信じても往生には念仏が必要”でなく

    “信不退:本願を信じるだけで、不退転が得られる”を選んだ。

個人的には一念義を越えて、無念義?に至りうる気持ちがしておりますが・・。

2)臨終念仏が必要か?の考え方から
摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。また念仏の申されんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。罪を滅せんとおもはんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて候ふなり。(歎異抄十四)

  個人的な本音を言いますと、親鸞上人はすでに“信じる”ことに重きを置く事により、“南無阿弥陀仏”という念仏をある意味超えておられた(そして戻られた?)気持ちがしております。

④“昔言葉は一つだった。”人間の傲慢で作った“バベルの塔”に対して、怒った神が“世界をバラバラにしよう”といった話が下敷きの映画“バベル”の監督は“世界を○○でつなげたい”の“○○に入る言葉は?”という質問に対して“compassion(深い思いやり)”と答えています。英語で“南無阿弥陀仏”をどういうか?という問題ともいえます。やはりすでに言葉を超えているというのが真実ではないでしょうか。

  

Ⅳ.私見


1.50歳・・・夏目漱石先生

 私は循環器内科をしておりますが、昔から49歳に男性の心筋梗塞がまま認められることを感じておりました。私の場合病気をしたわけではないのですが、この50歳が大きな転機となった気持ちがしております。ここはかなり個人的な告白ですので、飛ばされても結構です。

 私は中学の頃、“善とは悪い事をしない事”と考えておりました。歩いていれば蟻を踏み潰すこともある。生き物を殺して食べて生きている。それを考えれば善であることなど絶対に無理な事と思われ、“善は悪には絶対に勝てない”と悲観的になっておりました。たとえ善行を積んでいる人であったとしても“私は善人”という態度を取れる人がいれば、“偽善”として私は嫌っていたと思います。中3の美術の最終の課題の自画像を書く時、私は中心に“悪”の赤い火がメラメラと燃えていながら、表が黒か白の冷静をイメージできるような抽象的なものを提出しようかと本気で考えていたことを思い出します。自己の悪に気づいてしまうと“キレイゴト”を口にすることができなくなります。言っている自己と、現実の自己のギャップがわかっているので、全てが偽善と認識されてしまうからです。

恥ずかしながら最近知ったのですが、夏目漱石の三四郎に次の文があります。“この20世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位で充たすというむずかしい遣り口なんだが・・・:昔の偽善家はね、何でも人に善く思われいが先にたつんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないように仕向けて行く。相手は無論嫌な心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させ様とする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語は飽くまでも善に違いないからーそら、二位一体という様なことになる。この方法を巧妙に用いるものが近来大分殖えて来た様だ。極めて神経の鋭敏になった文明人種が、最も優美に露悪家になろうとすると、これが一番好い方法になる。”。正直驚きました。自分の悪の部分を見つめていた私が現実にしてきたことの本質がここに書いてありました。実際は善と思われることをしようとしながら、私は善人ではなく偽善者なのですよということで、良い人と思われたくないという態度なのです。でもこの方法は他人に対しての実害はないのですが実際にはウソをついている、そしてそれを自分は知っているのですから、いつしか疲れてしまうのです。ですから最後最も適当な対応はあまり他者と関わりあうことなく、ひっそりと生きていくことなのです。

 私の基本的な生き方は、大学時代に考えた“チョッと損の生き方”(私の度量の狭さを表していて恥かしいのですが)というものです。当時宇宙船地球号という考え方があったかと思います。もしも皆が“隣の人よりも良い暮らしをしたい”と考えれば世の中は破滅すると考えた私は、“私を含む周りが幸せになるならば損をしてもかまわない。いや積極的に損をしよう”とまず思いました。勉学を含めて強制ではなく、自主性を重んじる京大の学風に私はあこがれていました。授業に出るのは120人のうちで10人ぐらいでしたが、それこそうちらしいと思っていました。昔は私の字は読めたらしくて、私のノートを借りる人がたくさんいました。役に立つならと喜んで貸していました。でも試験の時に返ってこないことがありました。もしかしたら私は授業にも出ず高得点を出す人を羨んでいたのかもしれません。貸さないともよう言わず、他人のためになろうとしながら、こんなつまらない事で悩んでいる自分の度量の狭さが嫌で嫌でたまらない思いをしました。その時に考えたのが“チョッと損の生き方”なのです。 “得をしようとする人”と“損をしようとする人”がペアになれば際限がなくなりえます。寄付をしたあとで、別の方が私の方にも寄付をと言われた時の断りづらさ(申し訳ない気がするのは何故なのでしょう)が、この例になるかもしれません。“私を含む周りが幸せになるならばチョッと損をしてもかまわない。いや積極的に損をしよう。ただしこの事は言わずにおこう”。これが私の“チョッと損の生き方”なのです。笑われるかもしれませんが“私の命が少しでも地球の役に立てれば”とまで内緒で思ってきました。そして私はいつしか、できるだけ静かに隠れて、他の人よりもほんの少し多く汗をかくようにする“チョッと損の生き方”を愚直に実践してきたつもりです。人付き合いが不器用で、少し変わったところのある自分にとっては好都合な生き方でした。


 大学の頃ふと“悪魔が絶対に悪い事をしないと考えながら、その行為によって誰かが幸せになったら悪魔は悩むのだろうか?”と思った時、“善”もつらいが、絶対に良い事をしないと考える“悪”もつらそうと考え、変な言い方ですがその悩める悪魔の“純粋さ”に対してか共感を覚える自分がいました。がそのままにしておりました。

 5年前友人との話し合いの中で“所詮生きている限り、白も黒も100%はありえない”という、ごくあたりまえのことに気がつかされました。であれば、その1%か99%かわかりませんが白を自分がどう観るか?評価するか?という問題でしかない。“今日は一つ善い事ができた”ことを感謝できるならば相対的な“善”でありうるかもしれない。“一日一善”という言葉がありますが、それを“一善ができた”と観るか、“一善をした”と観るかでも全く異なる。その基礎に“自分が悪い事をしているかもしれない”という認識があって初めて、“本当の善行”になるのかもしれない。言葉にすると“善悪の相対性”と“視点の問題”ということになりますでしょうか。その頃“善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや”とは、もしかしたら、“悪人の中にある善行の煌き”を言うのかもなどと相対性として解釈しようとする私がいました。

でも今回先述の友人から今までしてきた隠れてする“チョッと損の生き方”はあくまで自己満足にすぎず、元々期待していた良い影響が他に及ばないことを認識させられて“俺は何をしてきたんだ”と正直愕然としました。


今年初めの頃の天声人語で漱石先生の言葉“変な事をいひますが私は五十になって道に志す事に気のついた愚物です”を読み、“五十にして天命を知る”を目にしました。その少し後のダ・ヴィンチで漱石先生が実は実年齢50歳を前にして亡くなられていることに気づきました。勿論当時は数え年でしょうから、あの言葉から少しは生きられたのでしょうが・・・、嗚呼・・・と思いました。
 

高校時代には私も人並みに悩み“死にたい”と思ったこともあります。でも“死にたくなったら、せっかくこの大きさまで育ったのだから“ねむの木学園で何も考えずに子供達のために肉体労働をしよう。そうすればごはんぐらい恵んでもらえるだろうと考えました。そう思い定めてからは自殺などは全く心に浮かぶ事もなくなりました。しかし今回50歳を前にして、いろいろと重なった時、再び“死よ早く来い”と受動的ではありますが死を願う私がいました。

今私は50歳で一度死んだのだと思うことにしました。どうせそれならば、もう恥ずかしがる必要はないと思い定めました。それと“悪”の相対性に思い至り、自分なりの対応を見つけられたということも大きく関与しております。昔私小説というのがあったかと思いますが、たとえ私の人生に大した内容がなかったとしても、同じように隠れて生きようとする人はいるはずで、その人たちにとっては少しは何らかの役に立てるかもしれないと思っております。

2.悪とその相対性     (自己の規範の設定)

                          

 

  善

                悪

 

                             (現実)

                            ↑ (法律)

 

 “悪”にもいろいろなレベルの“悪”があるかと思います。

 

       現実世界に影響を与えるもの     影響を与えないもの

 

避けがたいもの    アリを踏み潰す(気づかない)

           食べ物(気づいている)

         もう少し頑張れば避けれたもの

                          想像または夢の中での行為

           単純なミス          現実よりも高く評価されること

           合法の意識的行為       結果が回避されたミスや行為

           法律で禁止されている行為      (・・・未遂)

避けやすいもの

      関与する因子:自己の意識、他者の関与(法律、規範、人の目など)

 

①おそらく私たちの住む世界には100%の善や100%の悪は存在し難く

②結局最終的には自分がその規範をどのレベルに置くか?次第で

③法律すら、それを超えれば他者の介入を宣言しているだけであり

④中には存在する限り必然として伴われる“悪”もある。

⑤この図からは生きている限り“悩み”はなくなるはずがない。

   規範をどのレベルに置くかはあくまで個人的な問題なので

  1)自己の中で自分の決めた規範と現実の間の軋轢が生じえるし、そのことを自己は必ず知っている。

  2)個人の間で規範の置き方に差が生じえるので、同じ出来事に避けるべきこと、許容されることという判断の違いが存在しうる

⑥対応は個人の問題と社会の問題としてあり

1)社会としては、法律としてのゆるい規範と、安全保障としての強い規範設定

2)個人としてはいろいろでしょうが

私なりには規範を自分の中にしっかりと持っておき、たとえその規範を守っていても“悪”が存在していることを認識しておき、そのことを申し訳ないという気持ちを忘れず、少しは良い事をできればと意識しておけば、まあ良いのかな・・・と暫定的に思っております。


この“相対性”の考え方は他のいろいろなところで応用可能なのだと思います。


  例えば もしかすると“他力”と“自力”もこの構図にあてはまるのかもしれません。

    山折哲雄先生の親鸞上人と道元上人の比較もとても興味深く読ませて頂きました。

 私見ですが

   “自力”はそれを完成できない人への対応を欠いているので全体像に至っていない

       勿論全体に対する必要性が元々ないと言えるのかもしれませんが・・・

   “他力”は、始めに“全てをお任せします”と決心した自己が必要という意味で

       絶対他力といは言えないとも言えます

 

参考:話は少し変わりますが、この“相対性”についての考えを概括してみました。

 

例えば                     (自己の規範)

 

   多数決

                

           少数意見の尊重

                             (現実)

 

 現代の教育、医療の問題の大元も多数決と少数意見の尊重という本来矛盾するために、明確な答えのないところにあるのだと思っています。

①この世の中には“相対性”と“複合性(複数のことが混ざるとき6473か?など)”などによって“答えのない世界”あるいは“答えを出しにくい世界”があるという認識が必要であり

    1)“答えのある世界”では答えを間違えずに出すこと

    2)複合性が原因の時には、単純化を一度試みるべきであり

    3)“答えのない世界”では、お互いの“思いやり”によって“折り合い”を付けられればベストである

②教育とは

1)初等教育は、社会的動物としての“ヒト”に必要なことを身に付けてもらう

2)高等教育は、“答えのある世界”で答えを間違えずに出すために

①事実をあつめる。②論理的に考える(三段論法が全て)。③ミスをしない。

          訓練をすることで

  必要な正しい事実をあつめるために、時間、空間を越えた視座を持つ訓練をすること。

    3)そして新しい世界を探す“楽しさ”“気概”を経験させてあげること(未来へ)

③この中では次の認識が重要

    1)この時空では“三段論法”が全ての存在が従う唯一の論理である

    2)ヒトは多様だ。     だから相対性の場面ではズレが起こる

  これが今までに私が得てきた事です。


3.生老病死

①四苦の生老病死とは本当にうまく言ったものと思います。

老病死が“苦”であることは誰でもすぐに理解できます。26歳でインドへ行く前の私には正直何故“生”が苦なのか理解できませんでした。でもインドで今の日本人には理解できないかもしれないが本当に生きる事自体が身体的にも大変な世界があることを実感しました。おそらく天候にインドよりも恵まれた日本ですら戦争中や昔の飢饉などのあった時代には生きる事自体が大変だったはずです。

 そして先述した規範の違いなどによって“生”にはこの世から無くなるはずのない心理的な“悩み”も含まれる。

②老病死と“生”の身体部分を救うのが、“セーフティーネット”と呼ばれる社会保障で

     “生”の精神部分を救うのが、宗教、心理学など  でしょうか。


4.親鸞上人の想いを生かす ~そして未来へ~

親鸞上人の

“もしこの書を見聞せんものは、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力にあらはし、妙果を安養にあらはさん。安楽集にいはく、真言をとりあつめて往益を助修せん。いかんとなれば、さきに生ぜんものは、のちをみちびき、のちに生ぜんものは、さきをとぶらひ、連続無窮にして、ねがはくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海をつくさんがためのゆえなり。”

    を実現するためには

親鸞上人が“飢えない方法”か“心を救う方法”のどちらかを教えると選択を迫られた場合、私の中の上人は前者を選ばれる気がします。

“ヒトはパンのみにて生きるにあらず”ですが“衣食足りて礼節を知る”も現実です

ですからなすべきことは

①“上人の時代とは違って恵まれているとはいえ生老病死の問題を最低限納得できるレベルに保とう”  ・・・ヒトをケモノにしないための非戦と日常生活での社会保障

②“智恵は個人のものでなく、人類のものというつもりで真理を誠実に一歩ずつ求めていこう”     ・・・真理を見つけ、蓄積していくためのシステム化

③“時間と言う視座にたって一歩ずつでも世の中を良くしていこうと思おう”

  であり、おそらく現在はそのつもりになればそれが可能な時代だと思っています。


キーワードは “一歩ずつ”“同じ方向を向いて”“時を頭の中において(いつの日か)”だったのだと思います。今回思いついたのは“人々全てが幸せになる日がいつか来ることを信じて、みんなでいっしょに、一歩ずつ前へ進んでいけば、いつの日か本当にそんな日を迎えられるのではないだろうか?”と言うことなのです。これは“人類と言う枠の中での究極の理想”と言えるのかもしれません。おそらくは“多様性”は人類の存続にとって不可欠なのだとイメージしておりますし、そうであれば当然前述した相違による葛藤が出現するのは必然といえます。だから完全な状態に至る可能性は極めて低い。でも全体のことに目をやりつつ、共通の今よりも少しだけ良い状態を目指すことは可能だと思います。おそらくはすでに時代は方法論としてはそこへ近づいているような気がしております。小さな一歩を拡張する可能性を示したのは、コンピューターであり、インターネットでしょうし、その中で個人の利益を放棄したことによって社会の利益を優先したウィキペディアやリナックスはその先駆けとも考えられます。あとは人々の意識が“自己の少し良くしたいとする行為が、世の中を良く変えていけるだろう”というレベルに至るかどうかであり、もしもそこへある割合で到達すれば、それを交通整理する理論が必要とは考えておりますが、社会の変化は加速されるのではないかと思っています。


 

“いつの日か地球上の全ての人々が幸せと感じられるような日がくることを祈って、その日に向かって一歩ずつ共に歩んでいきませんか?、そう思えば途中で喧嘩する事もないし、いつか少しずつでも近づいていけるそんな気がしませんか?”これが親鸞上人のメッセージだと考えています

 

 

 最後に:長い文章にお付き合い下さいまして誠にありがとうございました。現実の私は今他人の目から見たら“思いやり”の全く感じられないであろうことをなしつつあります。昔ならば穴倉へ逃げ込んでいたに違いありません。今の私は前を向いていこうと思っております。

 

 

Ⅴ.参考文献(順不同)

悪と往生         山折哲雄     中公新書

教行信証         金子大栄     岩波文庫

正信偈62講            中村薫          法蔵館

真宗入門              ケネス・タナカ     法蔵館 

親鸞                 笠原一男       講談社学術文庫

親鸞                 吉本隆明       春秋社

絶望と歓喜<親鸞>    増谷文雄・梅原猛 角川文庫

歎異抄          金子大栄     岩波文庫

仏教信仰の原点      山折哲雄     講談社学術文庫

弥陀の橋は        津本陽      文春文庫

よくわかる親鸞      武田鏡村     日本実業出版社

ホームページより

真宗聖典         正覚寺

親鸞の生涯        大法輪閣 坂東性純

歎異抄の世界       大谷大学

唯信鈔領解        岡西法英

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