循環器内科開業医の病気、世の中、生きる悩みについての独り言です


西洋と東洋?
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  西洋と東洋??・・“島国の特性”は?・・・さらに日本の立ち位置は?

 世の中にはいろいろな人がいるというのは事実です。

 例えば(犯罪のような不正をしなければ?)自分の持つ智恵、環境、努力などを使って他人に勝つかぎりにおいては、たとえその結果が相手の命に関わるとしても、どれだけのものを手に入れても当然だ。同じ競争の場所に立って勝ったのだからという考え方・・・これを個人主義のアメリカ型“競争社会”とあくまで象徴として呼ぶことにします。一方自分も含めてできるだけ多くの人がそれなりに満足のできる社会を目指そう。そのためには自分自身はある程度の我慢もできるという考え方・・・これを協調主義の北欧型“福祉社会”と呼ぶことにします。1つの例として日本で現在5%の消費税はアメリカにはなく、北欧では約25%です。

 私がこれまで実際にしてきたひどいことを知れば信じてもらえないかもしれませんが、医学生の時代から私の基本的な考え方は“隠れてするチョット損の生き方”でした。みんなの笑顔が見れるなら、みんなが幸せになれるならば自分はみんなよりも損をしてもいいというよりも、積極的に損をしよう。ただしいっぱいの損は嫌ですよということです。でもここにある“隠れてする”というところに当時からこの問題に悩んでいたことが現れていたのです。損をしても良いという人と、貰えるものならドンドンもらうという人が同じ場所にいれば、取られっぱなしで止めどがなくなってしまうのです。私にとっては断ること自体も辛く思えました。実際それで疲れた私は、自分のその考えを外に出さずに隠れて実践することを選びました。あまりに上手にしすぎると誰にも感謝はしてもらえませんが、自己満足で十分だと思っていました。

“楽をして贅沢に生きる”ための一番簡単な方法は“大きく相手に損をさせて自分が得をする”ことと定義した“搾取”ですと書いて、歴史の中で長く西洋が、アジア・アフリカなどに対して行ってきた“搾取”を書いてきました。では西洋という言葉を使って書いてきたこの搾取”する側と“搾取”される側の違いはどこにあるのでしょうか?

これを書く理由は極論するとアメリカ型の“競争社会”と北欧型の“福祉社会”のどちらの方向を今後日本は目指そうというのかを考える上で、非常に大切だと思うからです。

私に思い浮かぶのはその他を含むと次の5つの理由になります。

1.狩猟民族か?農耕民族か?

2.歴史の中で先に“力”を手にすることができたという順番の問題

3.一度手にしたものを失うことは、これから手にすることを諦めるよりも難しい?

   先に持ってしまったからという順番の問題

4.住んでいる環境の影響・・・・貧困のこと、島国のこと

5.その他

1)大昔の農耕は今よりはるかに大変だったと思います。だから協力しあうことが必要だったかもしれません。どれだけ頑張ろうと農耕社会ではその成果はその土地に応じての限界があったと思います。現代の狩猟に取り放題などということはないでしょうが、協力が必須というほどではなく、昔は何より移動すればよいということで狩猟社会では成果の限界は自分の力や運などで決まっていたように思います。そして農耕の一番の特徴は同じ場所にとどまることです。そこに住む人たちと長く付き合うことになるために、うまく生きていくためには、協力、成果の分かち合いなど含めて農耕社会では“相手の気持ちを考える”ことが必要になったのです。こういう生活の中での歴史が個人に影響を残しているのかもしれません。相手の気持ちを考えると“搾取”は難しくなります。元々に“搾取”を心の負担と感じない人たちがいるということになるでしょうか。でも北欧も西洋です。

2)一番大きかったのは産業革命などを介して、移動手段、武器といった“力”を先に手に入れたために、現実に“搾取”しようと思えばできる状態にあったということだと思います。目の前に簡単に王様になれるようなチャンスがあったら、あなたはその誘惑に乗ってしまいませんか? 私は昔の時代ならきっと乗ってしまったと思います。
勿論ここにはあくまで可能性としてであり、従来搾取されてきた国の中にも極めて優秀な人たちが多くいるということで否定されると思いますが、人種として優秀であった可能性や、競争社会であったためにより早くに成果を上げられた可能性などが原因としてあげうるとは思います。

3)一度手にしたものを失うことは、これから手にすることを諦めるよりも気持ちとして難しそうに思います。だから既に多くのものを手にした人々は、何とかして今の優位な位置を維持しようと努力するし、分け与えることが難しくなる。これが地球で言うと今の南北問題にあたりそうです。地球に1つのパイとしての限界が見えてきたときに、それをどう分配するかということが今後さらに大きな問題となってきそうに思われます。

4)でもインドには大金持ちがいます。インドを旅行したときあちこちで“バクシューシュ(喜捨)”を求められました。旅行中青年海外協力隊の人から“インドは貧しくてそれがないと生きていけない人がいっぱいいるから、それを貰う人もあげる人も当たり前と考えているんだ”と教えてもらいました。パイが小さいために、譲り合いが必要で、一人がいっぱいもらうということが長い歴史の中で許されなかったということです。“損をできる”“我慢ができる”ということも日常の中での訓練なのかもしれません。こういう環境の中では既に持っている人でも分け与えることができる例だといえます。勿論西洋における寄付もこれに当たるとは思います。

 島国は移動が最も制限された状態といえるのかもしれません。日本人の“そんなことしたらお隣さんに笑われるよ!”なんていう叱り方の中に“相手がどう思っているか”が行動に強く影響するほどになったことが現れています。それが良い悪いというのではなくて、少なくとも言えることは日常のなかで“相手の気持ちを考える”トレーニングを日本人はいつもしてきたということなのです。“思い遣り”というのは相手の気持ちがわからなければできません。日本を旅行する外国の人たちが“ホスピタリティー(親切なもてなし)”を誉めることが多いようですが、これも相手の気持ちをわかって初めてできることに思えます。逆に取り放題の“搾取”をしても良いと考える人にとっては、“相手の気持ちを考える”必要など全くないし、むしろそれは邪魔であるかもしれません。ヘッドハンティングによって会社をドンドン移ってより高い地位を得ていくアメリカの社会も移動することで相手の気持ちを考えずにすむ上で都合が良いのかもしれません。

 現状をまとめると歴史的な経過から現在優位な立場にいる人たちの一部は、あまり“相手の気持ちを考える”必要を感じない環境にあったし、(違法でなければ?)“搾取”することを悪いと思わないレベルの“競争社会”の中に今もいるために、分け合おうとは中々しそうにはないし、今でもさらに“搾取”しようと思っているかもしれないということになります。これが先進国と発展途上国の間の南北問題につながりうるのです。

 貧しくて分け合って何とか暮らしている中に、外からドンドンもらえるものは貰おうとする人が入ってくれば大変になることは当然といえます。“競争社会”と“福祉社会”が一緒になったときにいろいろな問題が起こってくる可能性があるということかもしれません。そんなとき両者の間に立ってくれる存在は重要そうに思えます。

“楽をして贅沢に生きるには?”で最後お話したのは、日本も同じように有用な“特許”を得たときに“搾取”をして儲けようとするのか、それともその“特許”によって、“特許”による過剰なレベルの“搾取”を防ぎ富の再分配を図ることで、地球上での先進国と発展途上国の間での問題を和らげようとするかということでした。両者の間に入れるのは現在先進国の一員とされていて、自ら率先して現実的な損をすることを受け入れることを認めた国だろうと思います。先進国、発展途上国の人たちの気持ちも思いやれるかもしれない日本は数少ない南北問題を和らげうる候補なのかもしれません。“世界が平和になるように誠実に努力する国”という信頼を受けることを“誇り”とできるならば贅沢なことだと私には思えます。ただしその場合、国としてのまとまりが必要ですから日本自身が“競争社会”を選択したときには不可能といえます。

 

 現在の地球規模での大きな問題としてはこの今後心配のある南北問題と、現実に紛争を起こしている民族問題、宗教問題の3つが私には思い浮かびます。不思議なことにこれら3つの問題において日本という国は他国に比べてそれらの間に入りやすい特性を持っているようです。

 現在日本も近隣諸国との間にそれなりの民族問題を抱えていると言えますが、民族問題が現時点で戦いのレベルにあるのはアフリカ、中近東で、主に黒人、白人の中のようです。はじめからどちらかに組しない印象を与えることで、黄色人種であるということが民族問題の間に入ろうとする時に1つの利点になりうるかもしれません。日本が抱える隣国との問題も日本が信頼できる国であると信じてもらえれば根本的な解決に向かうと思えます。

 例えば唯一の絶対神である神イエスと神アラーを神奉する一神教のキリスト教とイスラム教が宗教という領域では絶対に妥協できるはずはありません。共存にとって唯一必要であって可能なことは宗教の領域以外では“唯一神の・・・様がおられることを真実だとは考えない人がいる”ということをお互いが認めることなのですが、一神教の場合は子供のときからの生活の全体において“唯一神である・・がおられることは真実”ということが事実として刷り込まれて認識されています。その場合材料にあたる事実の認識が無意識のレベルで異なるために、たとえ考えの組み立ての基本である三段論法がお互い正しくできようとその結果が異なることがありうるのです。日本人の私はいろいろな経験をしてきて今はクリスチャンですが、“神イエス様がおられることは真実”と思えない人がいることを当然のこととして理解しています。日本が多神教であると言えるのかどうかわかりませんが、それは子供のときから日本の中で暮らしてきたからだと思います。つまりそれはこの領域においても日本では多くの人が一神教ではなかったことが別々の対立する宗教の間に入ろうとする時に1つの利点になりうるかもしれないということなのです。

 ここで書いてきたのは3つの問題においてそれぞれ、もしも世界が平和になるように誠実に努力する国”であろうとした時に日本は元々にそれなりに良い条件を持っていたということなのです。

 

 さて実は私は日本はすでに“競争社会”への道を歩み始めていてこんなことはありえないのではないかと諦めていました。そのターニングポイントは小泉首相とカルロス・ゴーンさんでした。優秀な小泉首相は2005年の選挙での郵政民営化への国民の支持を、“競争社会”での政府の形である“小さな政府”全体への国民の支持と読み替えることで“親方日の丸”(これが良いというつもりは全くありません)といわれた政策から方向を転換しました。優秀なゴーンさんは2000年前後危機的状況にある日産を職員をリストラすることなどで立て直しました。それはあくまで周りの状況と時機を適切に見てのタイミングが重要であったにも関わらず、“大きな会社もリストラで立て直せた”という結果によって、日本の会社を従来のリストラを極力避けようとしてきた家族経営的なものから、リストラをより気軽にできる“競争主義”へと体質を変えたといえます。

 私に“まだ日本って捨てたもんじゃないな”って思い直させたのは、2010年サッカーのワールド・カップでの日本が敗退した試合でPKを外した駒田友一選手への日本中の温かい対応でした。駒田選手は個人として非常に信頼されておかしくない人物だったそうですが、そんなことまで知っていた人は多くないはずでした。きっと彼がその失敗でどれほど辛い想いをしたかを感じ取れる日本人がたくさんいて、“気にしないでください。あなたたち選手に我々は感謝しているんです”という気持ちを態度に表すことで彼を慰めようとしたのだと思います。

これは特殊な例でしょうが1994年のワールドカップでの敗退した試合で自殺点を入れたコロンビアの選手が射殺された事件がありました。逆に駒田選手にはその後和歌山県がスポーツ特別賞を、磐田市が磐田市民賞を送ってまでいるんです。正直私はこの出来事を外国の人たちがどう感じるかをアンケートしてみたいとまで思いました。おそらく反応は“ばかげている”あるいは“アンビリーバボー(信じられない)”ではないかと思っています。バカな国民!それをあなたは“誇り”と感じませんか? 私は誇らしいです。

 日本には“他人の気持ちを考えて、思い遣りを形で示す”ことのできる人が今もまだたくさんいると思えたのです。

今回の安倍首相の政策はいろいろな点で私の夢?とは逆を向いていることが多いのです。だから私はおそらくラスト・チャンスとして、“小さな政府”を選ばずに国としてまとまって、日本はその“立ち位置”を南北問題などの間に入って“世界が平和になるように誠実に努力する国”という信頼を受けることを“誇り”にすることにしませんか?などというこんなバカな文章を書くことにしたのです。

                   ”あなたは楽をして贅沢をしたいと思いませんか?”
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