循環器内科開業医の病気、世の中、生きる悩みについての独り言です


イエス様
このエントリーをはてなブックマークに追加
Clip to Evernote

  イエス様 ・・・ ユダを裏切り者と呼ぶのはもう止めませんか?


苦しみの中で私は親鸞聖人という方の素晴らしさを知りましたが、苦しみは続きました。私の最も大切な方が苦しみの中でイエス様に救われたことを聞いて、私もイエス様の学びを始めました。

実は私は中学生時代に自分の“悪”の意識に悩むころ、全くの学びもない状態なのに、神とされるイエス様に対して“あなたは足元のアリを踏み殺してはいないのですか?”というただその一点だけで傲慢さを感じて、恥ずかしいですが正直イエス様を嫌っていたのです。


 その学びの中で私は十字架の上でのお言葉、“エリ、エリ、レマ、サバクタニ(神よ、どうして私をお見捨てになったのですか)”に出会いました。これも恥ずかしいですが自分が苦しんで初めて感じ取れるようになることがあります。私にはそれが魂からの叫び、慟哭であると感じられました。

マタイの福音書には“長老・・・たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた”とあります。御自分の最後を知っておられたのです。そして最後の晩餐のときに、それらを“栄光”と呼んでおられます。人々の罪を背負った生贄の子羊として死んでいくことで、愛の心を身をもって示し、復活によって旧約聖書にあった救世主であることを明らかにするということでしょうか。苦しむ人々を救いたいという想いがそれほど強かったということは絶対に間違いないと思っています。その栄光の道の途中であるはずなのに、十字架の上での心からの叫び“エリ、エリ、レマ、サバクタニ(神よ、どうして私をお見捨てになったのですか)”は私にとっての大きな矛盾でした。少なくともその時点でイエス様は三位一体の神ではありえないし、それを口にされたのです。いったい何がイエス様にこの言葉を口にさせたのでしょうか?

ヨハネの福音書によると最後の晩餐の席でイエス様は、イスカリオテのユダに対して彼の裏切りを予言した上で“あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい”とまるで裏切りを促すかのような言葉を告げられました。他の使徒たちの逃避やイエス様の否認まで予言されたのです。もしもその時にユダを裏切らないように導けば、例えばただ場所を移るだけでもそれら使徒たちの不行跡や苦しみも救えたのではないだろうか?私の心がねじれているからかもしれませんが、そのことがすぐに頭に思い浮かびましたが、後で調べてみると同様の疑問を持たれた人はおられたようです。ただしゲッセマネでイエス様は迷いを示されたように思います。

“今すぐしなさい”と言われたユダは兵士たちを導いてイエス様の捕縛に協力します。そしてユダはイエス様が罪に定められたのを知って裏切りの代価の銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去り、外で首をつったとあります。裏切りはお金のためでも、憎しみのためでもなかったようです。

 これら一連のでき事の中でイエス様は神として敬愛され、2000年にわたって多くの人々を救ってこられました。そしてユダは裏切り者の代名詞として呼ばれ続けてきたのです。


 ここからはあくまで私の妄想です。

 もしかするとイエス様は十字架の上で初めてユダの自殺を聞かされたのではないだろうか?

タイミングは合いますし、裏切り者ユダの自殺を知った弟子は告げるだろうと思えます。私にはイエス様が苦しみ自殺することを知ったうえでもユダに裏切りを勧めるような方だとは今は絶対に思えないのです。イエス様は死者を4日目によみがえらされる奇跡を行ったことがありますが、そこには肉体の保全など何らかの限定があったのかもしれません。もしかしたら“今はどうしても行けない”という辛ささえあったかもしれません。

私自身が経験した一番の苦しみとは、“良いことをしたいという想いが強いほど、自分のしたことが自分以外の人を苦しめること、その相手が自分にとって大切な者であるほど、そしてそれが取り返しのつかないことであるほどより大きくなる”ということでした。

人々の苦しみを救うために御自分の命まで投げ出そうとするようなイエス様にとっては、人々を救おうとしながら、自分の弟子であったものを、自分が避けようと思えば可能であったのに死という取り返しのつかない形で失うということは耐え難いことだったんじゃないでしょうか。その人々を救うに匹敵するほどの最大の罪の意識をその瞬間に感じられたのではないか。なぜ死んだのだ。今私は助けには行けない!それがあの“エリ、エリ、レマ、サバクタニ”を生んだのではないか・・・それが私の妄想です。そしてその最後の言葉“父よ、わが霊を御手にゆだぬ”でイエス様は真に神になられたような気がしています。


最後の晩餐の席での最後のそして新しい戒めは“互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい”でした。“もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたが私の弟子であることを、すべての人が認めるのです”・・・“なんじの隣人を愛せよ”ということでしょうか。そしてこの“あなたがた”を使徒ではなく世の中の全ての人に置き換えるならば、“隣人愛”は地球を覆いつくせることを言っておられるようにも思えます。

私は世の中の人々の苦しみを救うために自ら罪を背負われたであろう親鸞聖人とイエス様を知りました。お二人には同じ“愛”の心があるのではないかと思います。イエス様はその後約2000年に渡って苦しむ多くの人々を救い、そして多くの人々に日々“よき人”であるようにと導かれました。私は“南無阿弥陀仏”では残念ながら救われませんでしたが、“愛”はわかります。

 

私はユダを裏切り者として呼ぶことをもうやめれば良いのではないかと思います。

イエス様はあまねく人々が幸せになるようにその罪を一身に背負って、人々が赦されるために十字架の上でご自身の命を奉げるようなお方です。イエス様の弟子であったがために大きな罪を背負い、自殺という方法は間違っていたかもしれませんが、その罪を深く深く悔いたのがユダです。そして2000年にわたって彼は裏切り者と罵られました。イエス様はそんなユダの魂の救済を最も心から願うようなお方であろうと私には思えます。


どうかお願いいたします。m(__)m 

                     平成25323

 

PS次の章は私が平成22年に尊敬する先生に出した手紙を少し改変したものです。この時点でもユダの死についての誤解があります。でもこの中には私の理解が変わっていく姿がそのままに出ていると思っているので間違いのままに出しました。


“今苦しんでいるあなたへ”:あなたも含めて全ての苦しむ人たちを救いたいと自分を犠牲にしてまで尽くした人が少なくとも2人もいることを知ることは“救い”の1つです。でもたった一人でもいい。近くにあなたの苦しみを受け入れてくれる人がいれば、あなたは幸せだと思います。そしてそのことは本当に“ありがたい”ことだと思っています。

                   このページのトップ

                   トップページ目次